VPは今何処

2004年7月30日
漫画を1500冊。CDを400枚。兄に預けていたものを引き取った。
まさに燃える太陽の下で、玉のような汗が零れた。
そうか、こういうことか、と思った。

どこまで俺は半端なんだろうか。なんだこのどうでもいい数は。
自分の背骨の一部は、たったこれだけなのか。
黒や白のように純粋になりたい。叶わないと知ってても。

引き取ったものの、どう整理すればいいんだ。
少なくとも、これで仕事が出来た。
少し逃げられる。
救いなどやはりどこにも無いのだろう。
見つかるのは逃げばかりだ。
しかし、どこにも無いという仮説は決して証明出来ない。
そのことは証明出来た。成果だ。
しかし、向き合うこと自体が間違いだったのか。

俺は悲観的にそう言っているのではない。
今でも俺はピース!と祈ることが出来るだろう。

間違いを責めること、今はしたくない。
何が間違いなのかも、今は考えたくない。

死にたくはない。
何が俺を止めるのか。
歯止めはたくさんある。
それで十分に幸福じゃないか!
それは本当か?

本当は、本当に、怖いんだろうな。
コンビニにワープしてた。
何してていつ家を出てどう歩いたのか覚えてない。
気がついたらコンビニ。
まぁいいや。

で、ドカベンの1・2巻買って来た。
読んだ。

殿馬はどう考えても山田より凄くて
岩鬼は明らかに主役で
微笑は付け足しの五番目で
ケガの無い里中ちゃんに魅力なく(布石アリ)
明訓時代のライバルに大して魅力などなく

プロ野球編と変わらないんじゃないか
とか思ったりもしたんだが
分かったことが一つある。

スーパースターズ編の真の目的は「トンネル」山岡だ。

2巻終了時点ですでに3回トンネルネタ。
土井垣が「なかなかいい守備」と褒めるコマの背景には
あの伝説のトンネルシーンが描かれている。
ていうか、ほぼ登場する度にトンネルシーン。
トンネルいじめだけで使われたページさえ1ページある。

ドカベン−大甲子園−プロ野球編、で
世界一の長編となったこのドカベンで
漫画の世界に最も影響を与えて
シリーズの中で最も印象に残るのは

「あっ」

に間違い無い。
山岡は世界一印象に残る人物の一人だ。
その時のアナウンサーも素晴らしい仕事だ。

山岡をレギュラー起用した水島新司は流石だ。
最初に登場させた追加ライバルがいわき東の緒方ってのも流石だ。
中島らもが死んだ。









岡崎京子の事故以来の喪失感だ。









これが「あたまの中がかゆい」ってことだろうか。
とりあえず医者に連絡した。
夕方行く。
何にもならないことは知ってるが。
何かを信じないことには立つことすら出来ない訳ですが

じゃあ何を信じればいいかと言うと

それが分からなくなったということで

んじゃ俺は一体なぜいるのかと言うと

そればかり考えてきた人たちの言うことが的外れな気がして

それでも俺は椅子から立つことが出来て

そこそこ健康な体で恵まれた環境で

甘えと分かってても虚無には勝てなくて

アリにでも生まれ変わって働くだけで死ぬのがいいなぁとか

もう頭使いたくない。

でも橋の下には捨てられたくない。

人間に生まれ変わるならHALが完成したような世界に。

そこまで行ってれば何か答えが出てるだろ。

そしてHALは決して生まれない。

とにかくどこかで早いうちに折衝点を見つけておかないと

今俺が足を置いている床になんで俺は立てるのかさえ

もう分からないんだしさあ。

どこまでが俺の世界でどこからが違う世界なんだか。

狂っているのか正気なのかも分かりませんが

違いはないんじゃないの。

って、今思った。
なんでこんな浅はかな奴ばっかりなんだっ!!!!
俺もなっ!!!!
早い話が、十数年前に出会った時は面白い知識としてしか自分の中に取り込まなかった概念が、今再び対面してみると、どういうことか強烈な不安と焦りと混乱を引き起こしているらしい。俺はなぜか涙を流し、何かにすがろうとし、何にすがれば良いかも考えられずまた涙を流し震えている。なんとか振りほどいて逃げられないかと考えている。

人が知性と呼ばれるものを手に入れたのは、「神」の存在に気付いた時だ。それは同時に「疑う」という事を知った時だろう。神という概念が出てこない文明など、どこにも存在しない。「文明」という言葉が何を指すのかは分からないが。

俺はどんな宗教の信者でもない。しかし神と呼ばれる存在は信じている。それが実在なのかは、俺にとって、もはや問う意味さえない。宗教というのは神をどう表現するかというだけの問題だ。

人は徐々に神と呼ばれるものを排斥することで科学を発展させてきた。しかしそれは大局的に見れば神を解剖しているのと同義だ。今から何千年何万年かかろうが、決して到達出来ないところを科学は目指している。コップに注がれた水の数は決して数え上げられないのだ。

そして究極的に自由な科学は、数だ。数は全ての物理的現象から完全に解き放たれて自由だ。例えば「1」という数字はそれ単体ではまったく何の意味も持たない。しかし、それでいて今の科学ではこの「1」という数は全ての物理現象を表現する時の根本だ。
つまり数とは究極に自由な言語だとも言える。

今日、「哲学」と訳される言葉と「数学」と訳される言葉は同時に生まれている。「考えること」と「考える対象」という言葉だったらしい。

全てから自由である「数」は、しかしそれ自体を否定する性質を持っている。人はその否定を覆すことが出来ない。

何を間違えた?
何を信じればいい?
神の衣の眩さに、俺の目は潰されたのだろうか。
完全にやられてしまいました。
軽いうつ状態ですが、そんなのどうでもいいです。

正気を保つことで精一杯ですが、その正気を何に使ってるかというと、狂気をゆっくり育むことなのかもしれません。そもそも正気と狂気のどこに違いがあると言うんだ!?
改めて、「知識」と「考えること」とはまるっきり違うことだと思い知りました。

俺の家族の生活を支えること、あらゆる形で触れ合った人々を思うこと、俺を捕えた概念、そこから発展させてしまった考え、俺の知らない過去を振り返ること、「果たして未来とは?」

絶対的な無に恐れを抱くことはありませんが、絶対的な有はあまりに大きすぎました。人の手に負えるものではないかと。
事実は事実として認識しておくだけで良かったのかもしれません。少なくとも僕には。

おそらく今後、僕は3つの可能性から1つを自然と選ぶことになると思います。「自己防衛本能」というものがあるのなら、そいつはどれを選ぶでしょうか。

目を背ける。
それを狂気と呼ぶなら狂気の世界で暮らす。
自分自身への絶対的無という操作を行う。

1番が選択されることを祈ります。多分1番を選択しようとして、出来ずに悩むでしょう。でもそれが一番楽なんです。他の選択肢は大事な人を悲しませるかもしれない。でも2番が一番魅力的なのは明らかなんです。

「科学的に生きることの矛盾」を素直に受け入れられるほど俺は器がでかくなかった。ただそれだけ。

なら、俺はどうする?

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K

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